おばばのブログ

2022年中高一貫校へ進学。大学受験(2028年)。東進スーパーエリートコース受講中

算数「比」・平安貴族の文化【5年後期・第5週】

5年生後期・第5週が終わりました。

 

ついに、算数が「」に入りました。

第1週は基礎なので、まだそれほど大変ではないですね。

 

これから、しばらく「比」が続きます。

予習シリーズと比較してみると、「平面図形と比」のボリュームが違いました。

日能研は2週だけ扱いますが、予習シリーズでは3回に分けて学び、間に2回の復習回も挟んでいます。

 

重要単元なので、栄冠テキストの補充問題や、マイ日能研の分野別問題集からのダウンロード、市販の問題集などで、意識的に演習量を増やす必要があるかもしれません。

 

冬期講習で復習すると思うので、その時にしっかり取り組んで、身につけていけたらいいな、と思います。

 

________

 

社会は、先週が奈良時代、今週は平安時代です。

歴史の学習では、比較的、楽な週かもしれません。

 

今週は、理科の電磁石が、一番厄介ですね。
 

 

【宮廷で咲いた平安文学】

 

ここから先は、おばばの趣味の歴史記事です。

【興味のない方は、読み飛ばしてください。】

 

ひらがなの発明

この時代、かな文字が発達しました。

 

先週、「万葉仮名」を学習しましたよね。

この「万葉仮名」を草書体で崩したものが「平仮名」として定着しました。

 

ひらがなを手に入れたなら、便利じゃん!」と思いますよね。

 

でも、この時代の男性は「ひらがな」をプライベートでしか使わなかったんです!

 

不自由な男性を尻目に、「ひらがな」を自由に使いこなしていった女性たち

 

そんな中から、紫式部清少納言和泉式部など、名立たる女性文学者が一気に出てきました。

 

この女性達には、共通していることがあります。

それは、宮廷に出仕して働いていることです。今でいう、キャリアウーマンですね。

 

当時、この階級の女性は、家にいることが良いとされ、外で働くことは好まれませんでした。

それなのに、なぜ彼女たちは、宮廷で働いていたのか。

 

娘を天皇に嫁がせ続けた藤原氏

この時代に一番勢いのあった貴族は、藤原氏。

藤原氏は、代々、娘を天皇に嫁がせて、その娘が産んだ皇子の後見になることで、力を保ってきました。

 

藤原氏の祖となった鎌足も、天智天皇、天武天皇に、娘を嫁がせています。

 

平安中期に栄華を極めた道長も、娘四人を、四代の天皇に続けて嫁がせました。そのうち下の二人は、姉の子(甥)に嫁いでいます。

道長は、ちょっとやり過ぎなくらいに、娘を嫁がせ続けることで、天皇のおじいちゃんであり続けたのです。

 

天皇の夫人は、何人もいます。

その中から、高い身分の女性が「后」となりました。

 

道長の最初の娘の彰子が一条天皇に嫁いだ時、既に定子皇后がいました。

普通なら、「后」のポストは一つ。

道長は、前例のない「一帝二后」をごり押しして、娘の彰子を皇后にしたのです。

 

一条天皇の二人の后。

  

先にいた定子皇后に仕えていたのが、清少納言

定子皇后は、華やかなサロンを築いて、一条天皇を惹きつけていました。

 

道長はこれに負けじと、娘の彰子皇后に、次々と有能な女性を付かせます。

既に「源氏物語」の作者として有名だった紫式部を始め、「栄花物語」の作者赤染衛門、和歌の名手である和泉式部伊勢大輔などがいました。

 

後世に名を残すような、名立たる女性文学者達が、同じ職場の同僚として働いていたなんてちょっとびっくりで、手塚治虫や赤塚不二夫の「トキワ荘」みたいだなあと思います。

 

清少納言紫式部がライバル関係としてとらえられがちなのは、それぞれが仕えていた皇后が、一条天皇を挟んで、対立していたからでもあるんですね。(二人が宮廷にいた時期は少しずれています。)

 

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華やかな平安文学

このようにして、有能な女性が、家から出て宮廷で働いたり、かな文字を使って物語を書いたりしたことから、平安文学は花開いていきます。

 

その中でも、女性が書いた私小説のような日記は、「日記文学」と呼ばれる一分野となっています。

その中から、おばばが面白かった文学を、いくつかご紹介したいと思います。

 

更級日記(さらしなにっき)

作者・菅原孝標女(すがわらたかすえむすめ

 

父親の菅原孝標は、学問の神様として有名な菅原道真の玄孫です。伯母に、「蜻蛉日記」の作者・藤原道綱母がいます。

 

作者の13歳~52歳くらいまで期間を、熟年になってから書いた、回想録です。

 

13歳の時に、上総の国(千葉県)に任官していた父親の任期終了で、一家が京都に戻るところから、始まります。

その後、内親王家への宮仕えを経て、30代で結婚。夫の病死。子ども達が巣立った後の空虚感から仏教への傾倒までが書かれています。

 

この日記の見どころは、冒頭。

13歳の時の、上総(千葉県)から京都へ向かう90日間の旅の部分です。

日記全体の半分くらい(多分)を占めています。

 

おばあさんが書いたとは思えません。

文体が若々しく瑞々しく、たった今、旅行を終えたばかりのように生き生きと描かれています。

 

それから、この日記全体のテーマが、「源氏物語」への強すぎる憧れと、「源氏物語的な世界」に憧れを拗らせすぎた半生について、なんですね。

 

田舎にいて、手に入らなかった「源氏物語」を、都へ行ってぜひ読みたいよ!というところから、日記は始まります。

 

旅行記の部分が終わって、都での生活がスタート。

 

「とにかく源氏物語を読ませてほしい」と祈り続けた甲斐あって、ついに源氏物語全巻を手に入れます。

そこから、夜も昼も分からない状態で没頭している瞬間のこの気持ちは、「后」の位をあげますよって言われたって、取り替えてあげない!なんて書いているあたりが、この日記の最高潮の部分です。

 

作者の紹介部分で、「30代で結婚」にひっかかりませんでしたか?

 

今ではまあ、ちょっとだけ遅め?くらいな感じですが、当時は10代で結婚するので、あり得ないくらい遅めです。

 

どうしてこんなに遅いのかというと、「源氏物語」をこじらせ過ぎたからなんですね!

あまりに拗らせたので、現実と物語の世界の折り合いをつけるのが、30過ぎてからなんです。

 

宮仕えもしますが、内気な性格だったらしく、清少納言や紫式部みたいに、宮廷で花開くこともなく、地味な勤務生活でした。

「物語みたいなことって、起きないじゃないの~!」と、怒ったり、絶望したりします。

 

最後は、物語にばかりうつつを抜かし、拗らせすぎたために、現実生活との折り合いが難しかった半生を、猛烈に反省するところで終わります。

 

こんなに好きになれる文学に出会える人生は、幸せだと思いますけどね。

それに、自身の手で「更級日記」という千年を超える文学を残したなんて、立派な人生です。

 

ひたむきな憧れの気持ちが、読む人の心をうつ「更級日記」。

冒頭の紀行文の面白さは白眉で、作者の非凡な文才を感じます。

 

おばばは、この「更級日記」が初めて読んだ古典文学でした。

中学生の時に読みました。

そして、この「更級日記」を拗らせました。

 

あまりに拗らせて、高校に入った頃、京都まで一人旅をしました。

【京都に憧れて関東から京都へ行く】という「更級日記」の作者の体験をたどりたかったんです。

新幹線で2時間でしたけどね。完全に中2病です。

 

そんなこんなで、おばばにとっては特別な思い出のある「更級日記」です。

「更級日記」は初めての古典文学として、読みやすいです。

 

 

 

紫式部日記(むらさきしきぶにっき) 

 

「更級日記」の作者が憧れた「源氏物語」の作者が、紫式部です。この人の書いた日記が「紫式部日記」。

 

 

「源氏物語」を書いた上で、「紫式部日記」!

どんだけ文章を書くのが好きな人なんだろうと、驚きます。

大長編小説を書いた人が、毎日長文のブログを更新しているみたいな感じです。

 

紫式部は、結婚して一女を授かっていますが、三年ほどで夫が病気で亡くなります。

その辛さを紛らわすために書き始めたのが、「源氏物語」です。

この「源氏物語」が評判になり、時の権力者、藤原道長の要請を受けて、彰子皇后に宮仕えをしました。宮仕えの時期に書いていたのが「紫式部日記」です。

 

「紫式部日記」は、当時のキャリアウーマン紫式部が書いた「お仕事エッセイ」なんですね。

 

あの「源氏物語」の作者が書いた! 

神作家の「お仕事エッセイ」!

当然、興味がわきますよね。

そんな気持ちで読むと、がっかりします。

 

けっこう、人の悪口書いてます。あと、愚痴や自慢もいっぱい書いてます。

普通の人なんですね、紫式部。

 

でも、「源氏物語」の神作者とカリスマ化せず、普通の「お仕事エッセイ」として読めば、けっこう面白いんです。

 

既に有名主婦作家だったこともあり、プライドが高い同僚達に、初出勤で意地悪され、落ち込んでしまう紫さん。

 

宮廷への出仕は、何が大変かと言っても、住み込みなんです。そして、寝る時は雑魚寝なんです。

これが辛いと、更級さんも言っていました。気が抜けないんだそうです。

 

自邸にいれば、それなりのお嬢さん奥様でいられる人たちなのに、これは大変ですね。

 

紫さんは、うまくいかずに自信を無くして引きこもったりします。

でも、そのうち処世術を身につけて、社会人として成長し、逞しく宮廷社会でやっていくんですね。

どんな処世術かというと、頭が良すぎるということで嫌われる紫さんなので、「天然のふりをする」というものでした。

 

これは現代でも、多かれ少なかれ、やっている女性が多いかもしれません。

 

紫さんが、日記で愚痴や悪口が多いのは、社会人として、自分を抑えていたからのようです。

 

のびのびと自分らしく、頭の良さを発揮していた清少納言さんは、ネチネチする必要がないので、「枕草子」はカラッとしています。

 

日記を読むとネガティブな人のようですが、社会人としては、常識があり有能な人だったのではないか、と思います。後半は、宮廷になじんで、立派なお仕事ぶりです。

 

時の権力者、道長の言動も描かれ、歴史的な資料としても貴重です。

 

道長さん、圧をかけて、紫式部を口説こうとしたり、和泉式部に「浮かれ女(今で言うと、恋多き女)」とか言ったり、けっこうパワハラセクハラのとんでもない上司です。

 

 

和泉式部日記(いずみしきぶにっき)

 

日記文学。

最後は、和泉式部日記です。

 

和泉式部は、これまで書いたように、彰子皇后に出仕した、紫式部の同僚です。

 

この「和泉式部日記」は、お仕事エッセイではなく、自身の恋愛私小説です。

当時から、恋多き人として知られたモテ女☆和泉さんですが、「和泉式部日記」は、そのうちの一つの恋の、数か月間を綴った日記です。

 

和泉式部は、最初の夫・橘道貞の任務で和泉の国へ行きます。娘を一人授かります。

ちなみに、紫式部の娘も、和泉式部の娘も、お母さんの才能を引き継ぎ、歌人として名を残しています。

 

帰京後、夫とは別居。

そして、天皇の皇子である、為尊親王との熱愛が有名になり、身分違いだとして、父親に勘当されてしまいます。

それから、頼りの為尊親王は早逝。

 

落ち込んでいる和泉式部を、為尊親王の弟の敦道親王が慰めているうちに、今度は敦道親王本人が、和泉式部に求愛。

恋人関係になります。

そして、惚れ込んだ和泉式部を自分の邸に引きとろうとしたら、正妃が家出。

和泉式部は、敦道親王の召人として、正妃ではないけど、まあ奥さんみたいなものになります。

男の子を授かりますが、何と敦道親王も早逝。

 

拠り所がなくなったところへ声がかかって、彰子皇后に出仕して、働き始めます。

その後、藤原保昌と結婚して、夫の任地丹後へ。

 

とまあ、忙しい恋愛・結婚歴の和泉式部。

「和泉式部日記」は、このうちの、敦道親王との恋の日記です。

 

敦道親王が、自分の兄の為尊親王が早逝して、その恋人だった和泉式部を慰めているところから恋に発展し、自邸に引きとろうとして正妃が家出する辺りまでの、数カ月間。

 

生涯で、夫が二人。

さらに、天皇の息子二人(兄弟)が恋人となった女性。

 

今なら、「魔性の女」という言葉で、連日ワイドショーやら文春砲に追われる毎日ですね。出版した本「敦道親王との真実の愛」も、正妃を家出まで追い込んだことで、炎上物件です。

 

ただこの日記は、不思議と、読んで嫌な気持ちにはなりません。

引きこまれていきます。

敦道親王との恋も、計算高いというより、あれれれれ~という感じで流されていくような、不思議な魅力があります。

紫式部のキャリアウーマン時代の装った天然ではなく、真正の天然さを感じます。

 

和泉式部は、平安時代を代表する歌人です。

頭で考えたような歌ではなく、口をついて出てくるような、天性の歌人です。

 

中世から室町にかけて、多情な女性として、その文学的価値も低めに評価された和泉式部ですが、近世に入って、与謝野晶子が「多情であるばかりではなく純情、愛欲とともに哀愁、そして奔放でありながら寂寥」であると、その和歌の才能を評価しました。

 

「和泉式部日記」には、和泉式部の歌が、恋の贈答歌として、ふんだんに散りばめられています。

 

最後に、和泉式部の恋の歌を、一つ。

・黒髪の乱れも知らず うち臥せば まづかきやりし 人ぞ恋しき

 

長くなりました。

最後まで読んで下さった方、有難うございました。

 

 

今回は、ここまでです。

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