「ある犯罪者」(おばば作)
網走刑務所に一人の犯罪者が新しく送られている最中である。
ここの刑務所送りになるということは、かなり重い罪を犯したから。
罪人の名前はキスケ。
住所不定で、20代の男である。
キスケの刑務所までの護送を担当しているショウは、この珍しい犯罪者から目を離せない。不思議で仕方がないのだ。
キスケは、穏やかな人柄に見え、神妙にしているようではあるが、ショウに対して媚びるでも、反発するでもない。
「これまで網走刑務所送りになる者は、目も当てられない位気の毒な様子や自分の境遇への不満を抑えられない様子、または、暗い目で沈思黙考する者ばかりだった。」
「ところが、キスケは、顔は晴れやかで目には微かな輝きを宿している。何か楽しげで、周りに護送がいなければ鼻歌でも歌いかねない様子である。」
「なぜなんだろう?」
ショウは、こらえ切れず、キスケに呼びかけた。
「キスケ、今、何を考えているんだ?」
キスケの話によると。
「普通の人には、網走刑務所に送られるのは悲しいことでしょう。けれど、それは、これまで恵まれた生活をしてきたからだ、と思います。」
「自分は、これまで筆舌に尽くしがたい辛酸をなめてきました。他の人の想像のできない位の苦しみを経験したことを思えば、網走刑務所では、住む家が確保されていて、寒さをしのげて、食事にもありつけるわけなので、それだけで何よりありがたいのです。」
ショウは、「そうなのか。」といったまま、黙り込んで考えていた。
「刑務所は、家があって、寒さをしのげて、食事もある。それはそうだが、それだけで、満足ができるものだろうか?」
「自分には、エアコンのある家もある。家族ともども食事もしっかり食べている。給料を全て使い切ることもなく、わずかばかりの貯蓄もないわけではない。たまには、旅行にも行ける。けれど、それで『満足』だと思ったことはほとんどない。幸せとも不幸とも感じないで、毎日を過ごしている。」
「むしろ、もっともっとお金が欲しい。そうすれば、ネットで目にするような、豪華なレストランの食事、ハイブランドの服にも手が出るし、色々な所に旅行もできるのに。」
「そういえば、日本人の所得はナイジェリア人の25倍なのに、幸せと感じる人の割合はナイジェリア人の半分だというデータもあるようだ。」
「毎日の美味しく食事をしていても、もっと豪華なものを食べられたらと思う。貯蓄がないと、少しでも貯蓄があったらと思う。多少あっても、もっとあったらと思う。もしかしたら、富裕層も超富裕層がうらやましいのかもしれない。子供の成績だって、そこそこだけど、他の優秀な子供と比べて、もっと成績がよければと考えることもある。このように考えると、人の欲望はどこまでいったら踏みとどまれるのか分からない。」
それを目の前で踏みとどまってみせたのが、キスケだということに気が付いた。
ショウは改めて、キスケを驚異の目で見るとともに、今度もこらえきれずに聞いてしまった。
「今回、刑務所送りになったのは、人を殺したからだということだが、なぜそんなことになったのか聞かせてもらえないだろうか。」
これに対して、キスケが話すには。
・・・
実は、お分かりになった方もいらっしゃると思いますが、この話は、「高瀬舟」(森鴎外)からとってます。
とっているというよりは、少し現代調にして短くしただけで、ストーリーは、ほぼそのままです。
なので、この後のキスケの話に関心のある方は、以下の青空文庫から「高瀬舟」をお読みいただけると幸いです。
この話は、おばばは子供の頃に読みましたが、今読み直してみると、本当に面白いと思います。
人間の欲望にはきりがなく、そこである程度立ち止まれるかどうかが本人の幸せを左右すること、そして、安楽死の問題。
どちらも古くて新しいテーマで、自分の子供にも読んでもらいたいと思いました。
今回は、ここまでです。